井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 長塚圭史演出「浮標」(三好十郎作)‐‐神奈川芸術劇場

<<   作成日時 : 2011/01/18 02:14   >>

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長塚圭史演出「浮標』を観る(神奈川芸術劇場のオープン初日2011年1月17日)
 長塚圭史の芝居を初めて観た。有能な演出家であると聞いていたが、見る機会を逸していた。新しくオープンした神奈川芸術劇場は、入り口の作りが東京芸術劇場に似ていて、斬新で素敵な劇場であった。が、ベンチの客席は、とても3時間の芝居に耐える椅子ではない。

 三好十郎の「浮標」は、1940年3月〜4月に築地小劇場で、新築地劇団が初演した。演出は八田元夫、五郎は丸山定夫、美緒は日高ゆりゑであった。当時の劇評で、近年の収穫といった杉山誠が、築地小劇場の「あの椅子がきにならなかったほど、舞台についていくことができた」と書いていた。が、今回の神奈川芸術劇場のベンチは、座り心地が悪く、とてもついていけないほど、問題の多い舞台であった。

 現代のエースと言う演出家と人気の俳優たちの出演舞台であったらしいが、日本のこれが現実かと正直がっかりした。

 舞台は長方形の白い砂場(千葉の白浜の海岸をイメージしているのか)があり、その周りの枠がこげ茶の木製の枠で、これが道になり、廊下になり、玄関になり・・・この木枠と砂場が舞台になる。

 三好十郎は、リアリズム演劇の作家と呼んでいいと思っている。彼の生きた時代がそうであり、それに彼は反発したわけではないからだ。

 1934年5月、革命的演劇運動の中核を担っていた東京左翼劇場(一般的には左翼劇場と呼ばれる)は、国家の弾圧を察知して集団の名称を中央劇場と改め、その改名お披露目公演を三好十郎の「斬られの仙太」(佐々木孝丸演出)でうつ。三好の転向戯曲と言われているものだ。作品は何と左翼集団組織批判!

 三好とこの集団の舞台をみて、ショックを受けたのが、囚われの身から戻ったばかりの村山知義。

 他方、国家権力は、左翼劇場の改名などにだまされるわけはなく、集団の解散を命じ、日本プロレタリア演劇連盟は解散決議を出さざるを得なくなる(プロット解散――1934年6月)。

 これは日本の演劇芸術にはじめて訪れた国家的暴力であった。 

 村山は『テアトロ』に『新劇の危機」を発表、新劇人の大同団結をうたい、新しい演劇集団、新協劇団が出来上がる。1929年の築地小劇場分裂時にできた新築地劇団と共に、現代演劇運動の両輪になって、初めて登場した輝かしい日本のリアリズム演劇の時代を生み出していく。

 こんな演劇的状況の中で、三好は外されていた。転向したからである。
しかしこの時代に生きていた三好はバルザックに傾倒したように、リアリズム演劇の作家の一人であったのだ。

その彼が哲学的な戯曲を書いた。
 
 時代がリアリズム演劇の時代であったからもちろん初演時の装置は和室にベットがある、そんな舞台で、演技もリアリズム表現であった。

 今回は白い砂場の上に籐椅子を置き、そこに美緒(藤谷美紀―肺結核の美緒に健闘している)が寝ている。美緒が登場する場では、ここは部屋になり、庭になる。

 この抽象的な装置は、別に違和感はなかった。むしろこの白砂は美緒のイメージの中での明るい外界と考えることもできた。

 五郎(田中哲司)の演技が問題であった。非常に頑張っているのはよくわかるが、怒鳴るか静かにしゃべるかの二つのパターンで、どうにもならない。これはこのようにさせた演出の問題であり、どうじに田中の演技の未熟さ故であろう。

 俳優の演技の質が二通り見いだせて、小母さん(佐藤直子――好演)と裏天(深貝大輔)は演技の基礎を積んだリアリズム表現で、確実さを示す。その他はテレビや小劇場風とでもいうか・・・・写実であったりそうでなかったり。

 三好研究者には叱られるであろうが、三好十郎という作家は饒舌で、ドラマの構成にはそぎ落とした方がいいような余計なセリフが多い。しかしそれが哲学的でもあるから文学青年にはたまらない言説になる、そんな作家である。
演出の長塚もそこに惹かれたのであろう。

 しかもこれは「私戯曲」(戯曲にはこういう表現はありえないが)といってもいいような三好と愛妻操の物語でもある。油絵は詩であり戯曲であると考えられる。

 三好の問題にしている、生きるとは何か、女を愛するとは何か、そんなものが自己の体験を通して濃密に塗り込められてもいる。

 それをどのようにしゃべり、身体の動きと連動させるかが、俳優たちにかかっているのだ。抽象的な身体表現をとる場合、どのようにそれらを表現するかが、演出家と俳優に託されるわけで、写実で演じるとは異なる困難が要求される。

 長塚の演出の発想――非リアリズムを取ろうとする発想は興味深かったのだが、長塚も含め俳優たちがとにかく下手で、非常に疲れた。

 男と女の愛の交感という意味合いを入れて、万葉集が出てくる。これについて、何故三好はここに万葉をいれたのか・・・・。

 1940年という年は、日本の新劇運動の二度目の弾圧、国家的暴力が発揮された年であった

 同時に1940年は皇紀2600年、天皇の世紀がはじまって2600年目のお祝いの年である。

 新協劇団は2月に「大仏開眼』をすでに上演して皇紀2600年の芸術祭のトップを切った。万葉と切っても切れない時代の話だ。新築地劇団は「浮標」を上演したのだ。三好が万葉を入れた意味がうっすらと分かるであろう。

 国家に反逆する意思のないことを両劇団は示したが、しかし、弾圧された。8月の新劇人一大検挙。
演出家・俳優が100人以上も捕まった。三好はもちろん、囚われていない。最後まで巣鴨に残されたのは、村山知義・久保栄・千田是也である。

 この「浮標」は劇作家の個的な熱い思いばかりではなく、そういう時代を背負った中で書かれた戯曲なのである。
芸術作品は、その作品が生まれた時代の空気や想いなくしては登場しない。


 この舞台を観ながら、昨年のイプセンの「野がも」を思い出した。装置も身体的な演技も抽象的な表現であったが、セリフはリアリズムで心理的な動きを描出し、優れた舞台を作っていたからだ。

 比較するとやはり、日本は現代劇の表現は演技と言うただ一点で世界についていけないと感じざるを得なかった。

 俳優の身体訓練――つまりは俳優教育をどのようにすればいいのかが、問題になってくる。

 最後に、これは現代劇と開幕前に発言した長塚は、三好哲学の何をわたくしたちに手渡そうとしたのか、それがわからない。

 この作品は、戦争賛美に近い危ういところのある部分を含んでいる。三好はこのあと戦争協力作品を書いていくのだが、その揺れが、ここにもある。それを長塚はどのように受け止めたのかが、伝わらない。

 21世紀の若者が恋愛をしない、人を愛さない、だから五郎のように深く他者を愛し、生きることに正面切って向き合え、という、まさかそんなことではないだろう。

 観客は、長塚グループのファンたちなのだろうか、20代30代の人々が多かった。彼らは3時間もよく我慢して座っていた。ファンはありがたいものだ。

 なかに白髪の人が混じっていたから、三好のファンか・・・・と勝手に思う。彼らはこれをどう思ったのだろうか・・・・・

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