井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 宝塚雪組 望海風斗主演「ドン・ジュアン」(生田大和潤色・演出)

<<   作成日時 : 2016/06/22 09:54   >>

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生田大和がフランス版「ドン・ジュアン」を潤色・演出、望海風斗が主演した宝塚版「ドン・ジュアン」を観た(2016年6月20日神奈川芸術劇場)

 フランス版はカナダで初演、その後パリで上演され、韓国やその他各地で潤色されて上演しているらしい。
つまりは作詞作曲が主軸であるようだ。

 フランスで作っているんだからモリエールの「ドン・ジュアン」(1665年)が下敷きだろう。
モーツアルトがおよそ100年以上たってから作ったオペラが、有名かもしれないが、演劇界ではモリエールだ。

 今回の舞台は、装置も洒落ていたし、群舞もコーラスも力強くてよかったし、望海は歌の俳優でその利点を生かして縦横に歌い上げていた。美穂圭子の歌はいつもながら素晴らしい。

 が、芝居としては、物足りない。欠点が多い・・・・!!!

望海には、〈清々しい〉役を演じている舞台で一度みてみたい。
       ・・・・似たような役作りから抜け出すためにも・・・・

 話は相当に作り替えていて・・・・・この事には別に文句もなく好きに作り替えても構わないのだが・・・・・ 
 ドン・ジュアンが色事師で教会も無視し、暴力的に女たちを侵している男であることは、なんとなくわかった。

 その彼が、騎士団長の亡霊(香綾しずる・・・・絶品、この人は誠に素晴らしい。演技の幅がドンドン拡がり楽しみ)に導かれて(そそのかされて・・?)彫像を彫るマリアに合う。

  (あんな時代にそんな女彫刻師がいたのかな・・・? 画家にすらなれなかったのに・・・・? 虚と嘘は違う)

 そして改心・・? して純愛に目覚める…?のだが、この辺りのドン・ジュアンの明確な変化が出ていない。

その後マリアの許婚が戦場から戻り、決闘してジュアンが死ぬ。死で罪を洗い清める・・・? 
そんなこと有り得ない。特に女を侵した罪は永遠に背負うものだろうに・・・・・

   その後の許婚者は生きていたようだが・・・・これも曖昧。

  スガナレルが、パパの従僕・・・? これは作り替えるにせよ、おかしい・・????

 真実の愛に目覚めるというが、・・・これも何となく眉唾で・・・・弱い。つまりはドラマの部分が弱いのだ。


 「心情の変化」が確実に描出されなくては芝居ではないからで、
宝塚はそうした物語の表出があって初めて宝塚の舞台として確立する。


 宝塚は外国産、それもフランス版を「ロミ・ジュリ」のヒットがあったからか・・・、「1789」に続いて
取り込んだのだろうが、「1789」もそこそこの出来で、今回も同様だった。
 
 「ドン・ジュアン」は、毒のある喜劇で破滅するところが面白いのだから、ウエルメイドではない。
しかも女性を侵し続けている男の伝説的な話を、今、宝塚で上演する意義は、一体どこにあるのかという
問題も浮かんでくる。

 演劇は生きている時代に無関係ではいられない芸術だ。
宝塚は静かに誰にも気付かれずに、時代に一石を投じながら生きて来た集団であった。
それを思い出さなくては・・・・・・

 「ロミ・ジュリ」は、ウエル・メイドなドラマであるから、上手に作り替えることが出来て、成功したのだ。

 他の商業演劇集団のように、外国産ミュージカルなどを移入していては、宝塚ではなくなる。
    自前の演出家の作品を生み出してこそ、宝塚の存在理由がある。

 経営サイド(?)の助言があるのか否か、分からないが、百年続いてきたのは、
〈自前〉という強い力を持っていたからだということを認識してほしいと痛切に思ってしまった。


フランスや韓国でヒットして熱狂的に迎えられても、
日本では〈歌と踊り〉だけでは熱狂的に迎えることはできない。

    日本人は、語りの世界で長い間生きてきた人種である。物語を好むのだ。

 つまりは心底〈ドラマ〉好きな民族なのだ。  と、近年とみにそう思うようになった。

それゆえにさまざまな〈ドラマ〉を生み出してきた宝塚が、100年続いてきたのである。 

 〈ドラマ〉の中で、歌も踊りもあればいいのだ。

     次は、新作らしいから、楽しみだ!

   宝塚のご案内は、こちら・・・・・
 
  https://kageki.hankyu.co.jp/

 

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