井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 文学座アトリエ公演「弁明 Apologia 」(ケイ・キャンベル作、広田敏郎、上村聡史演出)

<<   作成日時 : 2016/09/11 12:57   >>

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文学座アトリエの「弁明」を観た(2016年9月9日)

 身につまされる舞台であった!!!  が……疑問もある。これについては後述(原作・台本未見)


 登場人物はフェミニストの美術史研究者クリスティン(山本道子)
彼女の二人の息子ピーターとサイモン、その恋人トルーディとクレア
 (佐川和正・亀田佳明・栗田桃子・松岡依都美)
クリスティンの40年来の反体制運動の同志ヒュー(小林勝也・・・gay)

 この芝居の主人公と同じ、わたくしたちの国のフェミニストたち
1960年代後半から70年代にかけて・・・・たくさんいた!

美術史研究者のパイオニアというと若桑みどりさん
文芸研究者のフパイオニアは駒尺喜美さん、その後も沢山後に続いている・・・・・
ウーマンリブ運動の先頭を走った田中美津さん・・・・

舞台を観ながら様々な先輩たちの顔が浮かんだ。あああぁああ…遠い昔になった!

 舞台はクレアの誕生日に集まる息子たちとヒューが、彼女と息子たちとの過去、
息子と恋人の現在をあぶりだす。これもイギリスの劇作家らしい正統派の作りだ。

 ケイ・キャンベルは、ギリシャ人の父とイギリス人の母を持つ。
ロンドンの大学で演劇を学び、俳優としてスタートした。
20年来のパートナーは、演劇製作者のDominic Cooke

 こういうキャンベルが、反体制運動とフェミニストと異性愛家族とをどのように描出するのか・・・・

 サイモンが7歳の時に、リベラルだと思っていた夫が、突然二人の息子を連れ去って家を出た。
息子は、母が迎えに來ると思っていたというが・・・・・来なかった。
二人の息子は共にこの誕生日にそれをなじる。

  家父長制の世の中では、働く母親には冷たいから養育権は取れない・・・・・

  その後子供の休暇ごとに合う関係が続く。母はイタリアで調査研究して働く。
 そしてもちろんイギリスで反体制運動も続けていた。こうした過去がアトランダムに出て来る。

 ピーターは資本主義社会の優等生の銀行員に育ち、
驚くような正反対の女性で純粋なプロテスタントのトルーディと婚約、
 母恋が強い次男のサイモンは七年も前から小説家志望でも芽が出ない。
恋人の女優クレアに養ってもらっている。クレアは他の男と関係を持つ。

 クリスティンに出合い、彼らはそれぞれ変わるのである。
   この辺りのドラマの動かし方はさすが正統派だ。

 トルーディは、ドラマの始まりから終幕までの間にどう生きればいいのかに、最も大きな変化をきたす。
 ピーターには明確な変化は掴めないが、おそらくトルーディを選んだ時から
  少しずつ内的変化が始まっていたのだと推測される。

 サイモンとクレアは、なれ合いの生活に別離という形でピリオドを打つ。

 彼らは、出合えば口論をくり返し、互いが予想した互いへの気遣いをいつも覆される。

現在、世界的に仲良し異性愛家族が称揚され、それを構成することが恰も人間の目的のように位置づけられている。そうした似非規範からみれば、この家族は崩壊した家族ということになる。

 が、本来人間の関係は、このクリスティンのような家族関係であるべきであると、わたくしは思う。
互いの本音でぶつかり、議論をくり返し、切磋琢磨して、この社会でどう生きるかを模索する人間同士。

 作家のケイ・キャンベルがそうしたことを目論んだかどうかはわからない。
しかし、舞台の一家はそれを告げていた。

    「我々はどこへ行くのか?」・・・・・・に応える道はそれしかない・・・・


だが、 「現代、男性も女性も自由に、無秩序に躍進することのできる先進国の現代。」・・・・
      と文学座の宣伝には書いてあるが、はたしてそうであるのか・・・・と、思う。

 まだまだ、自由は阻害され、躍進は阻まれている・・・・からだ。
むしろ世界中を覆う不気味な保守性に、似非家族愛に・・・・世界中が目つぶしされているように感じる。



    「あんたたちは分かってない 自分よりほんの少し大きなもののために生きる意味が。」
   「腰を据えてじっくり説明してあげてもいい。政治に関わることの意味をー
    自分以外のことのため、家族の幸せ以外のことのために闘う意味を。」


  家族の幸せは、ぬくぬくした暖炉の前で仲良く過ごすことではない。
 生んだ子供が自立して、社会の中で生きていくことが出来るように育てること、
    それ以外ないと、思う。


 このクリスティンの家族は、甘ったれたサイモンがこれからどう生きるかということに懸っている

 クリスティンが、「帰って来ても部屋はある」と言った一言が、
  母恋のサイモンを立ち上がらせるカギになり、クレアとの泥沼生活を清算した。

  彼がこれから戻ってくるかどうかはわからない。ただ、クリスティンの元に戻り、
 精神的トラウマを清算して、自立できるように願わずには、要られない。


 そして最後、
  舞台上で一人になったクリスティンが、泣く。  彼女は何故泣くのか・・・・????

 これが私には、理解できない。

 この芝居は、この最後で壊れてしまったのだ・・・・・もったいない〜〜〜

 原作に何と書いてあるかはわからない。
 母性に思いをはせ孤独を嘆く・・・・?  それではあまりにも家父長的理解だ・・・・・社会に迎合している!

  非常に残念である・・・・・

  これは女性嫌悪に通じるのだろうか・・・・とも思ったのだが・・・・いかがか・・??


 これまで舞台を動かしてきたクリスティンは、
みんながそれぞれ自分の道を歩こうとしているのを感じて毅然として、
お面を見つめて終わる・・・・・・それが、彼女には相応しい・・・・・!

 もし原作に「泣く」あるいは「慟哭」と書いてあるなら・・・・・

それはケイ・キャンベルの男性的な処理と甘えで、所詮女はこんなものという意識が目立つ。

  自立したフェミニズムを歩む女が分かっていないということだ。

   もっともヒューは、女と寝るのはいやだと言っていたが、
  クリスティンとは同志として長い年月共に行動している・・・・・

    そういう存在を描出していながら・・・・・何故?


  やはり根本には、女性嫌悪が横たわっているのだろう・・・・・と思わざるを得ない・・・・・


 文学座の俳優たちは、皆検討していて、異なる個性で舞台を作りだしていて良かった・・・・!
  それが、救いだ・・・・  観客が囲んだ真ん中に置いたセットの造りもよく、

  全ての登場人物の心の中が明らかになるような感じがした。それだけに「慟哭」は残念!!!



 

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