井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 新国立「マリアの首」、文学座アトリエ「青べか物語」

<<   作成日時 : 2017/05/20 06:56   >>

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「マリアの首」(田中千禾夫作、小川絵梨子演出)と「青べか物語」(山本周五郎作、戌井昭人脚色、所奏演出)を観た(2017年5月17日昼・夜、新国立・小劇場、文学座アトリエ)

 二作品共に、がっかりした舞台だった!!・・・

 今、わたくしたちの国は、共謀罪・原発再稼働・平和憲法改悪・・・・戦争への道へ後戻りする状況に陥っている。

そういう時に、演劇に関わっている者が出来ることは何か・・・・
己の生きる場で可能な限りの事をする……それいがいないであろう・・・・

 新国立は、田中千禾夫の「マリアの首」を取り上げた。

ここには原爆で打ちのめされた人々が登場して戦争の恐怖を、生きることの困難を、
わたくしたちに再確認させるから、時宜にかなっているといっていい。

 その反面 「マリアの首」は、わかりにくい戯曲である。上演方法も難しい。

どの戯曲もそうなのだが・・・俳優の演技と個性が、戯曲に血と肉を付け、舞台で花開く。

特にこの戯曲はリアリズム演劇の範疇を破り、抽象的に〈神と戦争と人間〉を表現しているからなおのこと、俳優の存在は重要になる。


とはいえどのような方法で上演されても、原爆と戦争と国家的暴力の恐ろしさは最低限伝わるはずであった。


今回の舞台は、折角の作品の〈聲〉を伝えることができていない。


 「かさなる視点   日本戯曲の力」シリーズは、三作とも失敗だ!!

 今回の舞台は二、三の演者をのぞいて俳優たちが下手すぎて、
セリフをまともに言えず、大声で叫びわめくだけで、俳優が自己満足している舞台であった。

しかも舞台が客席に半分せり出し、下手の客は殆んど見えなかった。

大仰な回り舞台まがいのセットはいらなかったのではないか・・・・・


 小川絵梨子は、有能な演出家であると聞いているが、
素人同然の俳優のセリフをコントロールすることもできないのであろうか・・・・と、おどろいた。


 文学座アトリエ「青べか物語」
  
 アトリエ公演で、今何故、山本周五郎原作品を取り上げたのか理解に苦しむ。
文学座は、いつ〈新派〉になったのだ・・・・・

文学座の俳優たちは芝居ができる。
いまさら人間の意識の機微・微妙な感情の移り変わりを舞台で見せてどうすると言いたい。
しかも手渡すものがなにもない話で・・・・・・

 戦時中の文学座が、生き残ったように時代に目をつぶってあるくつもりなのだろうか・・・・
二度繰り返すのか…・とがっかりした・・・・

 アトリエ公演は、最先端の何かをいつも提供してきたのではなかったかと・・・・・この企画にもがっかりした。

「なんとなくおおらかな気持ちになってもらえれば」・・・・・と脚色者戌井は書くが・・・・

とんでもない。生きている現実が切羽詰まっているときに、
「おおらかな気持ちに」なれるわけもなく、なってはいけないのである。

 やれやれだ・・・・・・・

    

 日本の演劇集団は、どこへいこうとしているのか・・・・
国家の動きと同様に過去へ戻って行こうとしているのか・・・
 

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