井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 名取事務所「屠殺人ブッチャー」(N.ビヨン作、吉原豊司訳、小笠原響演出)

<<   作成日時 : 2017/06/24 10:52   >>

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「屠殺人ブッチャー」を観た(下北沢『劇』小劇場2017年6月23日)

 何ともあと味の悪い芝居だった。 

狭い空間に適したよくできた芝居なのだが、疑問が多く残った!

多分、〈よくできた芝居〉とこの中の思想が問題なのだと思う。


俳優たち(高山春夫―ヨセフ、ハミルトンー佐川和正、ラム警部―斎藤淳、エレーナー森尾舞)は、緊迫したスピーディな演技でよかったのだが・・・・・・

 当日配布されたプレイビルによると、ニコラス・ビヨンは、40前のカナダ出身の新進劇作家だという。

 演出家は次のように書く。

 「屠殺人ブッチャー」はラヴィニアという架空の国の内戦を物語の中心に置き、
   架空の言語を駆使して現実をうまく暗示させている。」


 クリスマスイブの夜中に、若者が警察と思しき部屋にサンタの帽子をかぶった老人を置いていなくなった。
老人は、ラヴィニア語を話す。警部は通訳を呼んでいるがまだこない。
若い弁護士ハミルトン・バーンズが呼ばれる。

 老人を置いて行ったときに彼の名刺がひっかけられていたからだ。
  肉屋の肉をぶら下げるフックのような部分を持つ鉄製の器具に・・・・

 老人は、殆どしゃべらない。
警部はクリスマスイブだからサンタのプレゼントを待っている二人の娘のところに早く帰りたい。
 この娘の存在は、後の行動の伏線として用意されている。

 弁護士は、老人をどこかで見たことがあるような気がしている。

 コーヒーや水や老人のブーツが予定調和的に順次運ばれ老人のブーツが脱がされて、彼の爪が全てはがされていることが分かってから・・・・弁護士が自分の車で病院へ連れて行くといいだす。

 この時、弁護士は、老人が誰だかわかりだしていたから・・・・・

 そして通訳エレーナが到着して、話が急展開・・・・

老人は、ラヴィニアの軍人で屠殺人ブッチャーと呼ばれていた極悪人のヨゼフ・ズブリーロヴォ!!!
内戦でとらえた反体制側の人々を収容所に入れて、惨殺していた。 

 初めに見せた肉をぶら下げる器具で、足のアキレス腱を切り、歩けなくしていた。


 弁護士は、息子だった。反体制の集団に襲われるのを危惧して養子に出されていた。

 収容所に〈伯爵夫人〉と呼ばれる紫のドレスを着た人がいた。
彼女は収容所に収容される人々の〈希望〉だった。

 その彼女にブッチャーは何をしたのか・・・・息子の前で話せとエレーナは迫る。

口を閉ざすと彼女は、息子の左足のアキレス腱を切る。

具体的な場面は暗転中に行われる。
  瞬時暗転にして、ことを起こす瞬間を見せないのは、舞台の手法で中々いい。宝塚でもよくやる。

 そしてブッチャーは、話し始める。それを息子に通訳して語れと要求。

 ブッチャーは伯爵夫人を、自分の部屋に連れてきて、屈強な軍人数名に何度も強姦させた。
窓もドアーも明け放し、「やめて!」と叫ぶ声を、収容所中にしらせるという残酷さ。
そしてナイフで体に傷をつけて、最後に「ありがとう!」と言わせて戻す。

 収容されている人々の希望を断ちたかったからだと・・・・

 エレーナはいう。その伯爵夫人は、14歳だった。そして彼女は体に傷つけられた跡をみせる。
つまり、彼女が伯爵夫人。

反体制の人々が復讐をしていたのだ。弁護士の息子はインターポールに引き渡そうというが彼女は否定する。

復讐の連鎖の仕上げは、最後に息子にベルトで父親のブッチャーを殺させること。

 彼が拒むと、警部の娘を仲間が捕まえていたことを知らせる。用意周到だった。

そして彼は父を殺す。

 最後に彼女は全てが仕組まれたもので、この場所は警察署の一室ではないこと、警部も仲間であることなどを告げて、このあとまた復讐をするだろう、あなたが・・・・というが、

 息子は、しないという。拒否する・・・・

復讐の連鎖は断ち切らなければならない…、唖然とするエレーナ。

そして死体に小便をかける警部・・・・彼も実は仲間であった。
(復讐は何をしてもいいのか・・・という疑問がわく…・人の尊厳を否定する行為だ)

 
…なんだ、最後は男が恰好い役回りをするのか・・・・復讐の統領はいつも女か・・・・?? 
嘘っぽ過ぎてつまらない・・・・



 この舞台を観て、思ったこと…・

 なぜ、男は女を痛めつけるとき、すぐに強姦するのだろうか・・・・・
 
男が男を痛めつけるとき、強姦するか? あるいは女が男を痛めつけるときに強姦するか?


 この仕打ちの根底には、やはり性行為に対するキリスト教的思想、家父長的思想が横たわっている。


 〈女は一人の男との性行為のみが正しい〉

つまり神の前で認められた関係によるそれが唯一無比で、他は罪悪、身を汚す、という発想だ。


 それ故に、凌辱するという罰をあたえるのだ・・・・尊厳を冒す・・・・


 男はどこでも女を買い誰とでも性行為をする。相手は誰でもいい。

しかし女は誰でもよくない。相手を選ぶ・・・・ これは雌の動物種に特有の特権だ・・・!!!

選ぶ行為を選ぶ自由を否定することになるから・・・・・
意思を否定することになるから、女への罰は強姦・・・・



 (最も近年選ばなくて誰でもいい男化した女もでてきたが・・・・)


本来性行為は、生殖作用で子孫を残すもの。


それゆえ男は、自分の血を残すべき相手の女を聖女とみなして所有する。

あとは誰とでも楽しむという構図がある。

買春が公には否定されたから、〈恋愛〉〈浮気〉〈不倫〉などという名称を当てはめて・・・・・遊ぶ。


何世紀も前からの女たちに男が課した〈おんなのあるべき姿という二元論〉の発想が依然続いている。


 そういう点から考えると、この戯曲の作家は、古い思想を抜けていない。

もちろん内戦が続いている現実もあるし、報復の連鎖も続いている。それを示したことも分かるが・・・

その解決が個人の裁量によるのでは、だめだろう。

報復をした人々の自己批判もここにはなかった。


虚実皮膜の間を描く戯曲には、、現実社会を映しながら未来を切り開く暗示を見せなければ・・・・面白くない。

しかもいつもいいとこどりするのは、男というのでは・・・・・いただけない。


さらには人の人権・尊厳・そうしたものが、戯曲には描出されなければならない。それも見えない。


  芝居づくりは、誠に難しいものである・・・・





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