井上理恵の演劇時評

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zoom RSS ア・ラ・プラス「ビザールー奇妙な午後ー」(日本・セルビア演劇交流プロジェクト)

<<   作成日時 : 2017/07/02 18:11   >>

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ジェーリコ・フバッチ作、高橋ブランカ訳「ビザールー奇妙な午後ー」(演出・構成:杉山剛志)を観た(2017年6月30日、目白風姿花伝)

 5人の俳優たち――服部晃大・西村清孝・蔡ヘミ・松田崇・辻しのぶ――が本邦初演の摩訶不思議な芝居を上演した。

 当日配布されたフリントに目を通さずに舞台をみたから、初めは何なのかよくわからない。
狭い会場に八百屋舞台がしつらえられ、屋根と思しき感じ??? の傾斜面に4か所出入りができる部分が切ってあり、袖の無い舞台の不自由さを賄っている。

 どうやら一人の男が死のうとしているらしい。舞台上のセリフは乱暴で猥雑で女性蔑視傾向・・・・
つまり、暴力と猥雑さが男と女を痛めつけている。
なにがなにやら分からぬうちに一つの話が終わる。これは屋上での話らしい。

 暗転に明かりが入ると同じ俳優たちが別の役で登場する。三人の男と二人の女の関係は、前回と変わる。

 三度目になって、暴力団のボスのような、あるいはこの地域の実力者の金持ち男とその使いっ走りの男と、昔の女と新しい馬鹿な女とどこかから来た(戻ってきた)警官が、登場してやっと話が分かった。

 つまり三つの話は、昔からこの地に住んでいた者と、いったん外へ出てまた戻ってきた者との話で、関係が構築できない。あるいは地域から疎外される・・・・・それをどうにもできない〜〜〜無法地帯か????

 帰りの電車で配布物に目を通す。

どうやら初めの話は屋上で、二番目は最上階で、三番目は一回のバーでの話でそれぞれが6年ぐらいの違いがあるらしい。

 そして作者の弁や演出、物語の説明を読んで、話がわかった。「3つの愛の物語」と記してあるが、
どこに〈愛〉があるのかと思う。

〈愛〉とは、互いの人権を尊重し認め、尊厳を冒さないところに生れるものだ。
この舞台では、それらは暴力・暴言・脅しの連続で示される。愛などは生まれようがない。

 台本も何もかも未見であるが、やはり訳が問題なのではないか?
同時に狭い空間で同じ舞台のしつらえでやるのも問題だと推測。八百屋舞台はダメだ。

説明文を読まなくてはわからないような舞台は、意味がない。手渡してもらうものがないからだ。

 今後これを海外で上演するらしいが、構成・表現・演出に手を入れた方がいい。



    一つ気になったセリフがあった。

三番目の乱暴で権力者の若い男が、過去に戦争に行き、その場で子供を殺したという傷を負っている。
それを抱えて彼は悩んでいる。そう・・・・悩まなくてはいけない。

「正しい戦争」というのは、ないのだ。武器を持って国外に、あるいは国内で立ち上がるということは、人を殺しに行くことであり、殺されに行くことだということを自覚しなければならないからだ。

その若い男の元恋人は、私も二度殺した(つまり中絶した)と言った。同じだという・・・

なにゆえ同じか・・・・・同じであろうはずがない。中絶はは殺人ではない。

おんなの体内で精子と卵子が結合した卵は、生きている子供ではない。

おそらくこの作家も男性で、キリスト教徒なのか(不明)、中絶という行為に反対なのだろう!

体内に芽生えた二か月か三か月の「卵の芽」は、子供ではない。

しかし男たちはそれを「子」と言って女たちに「罪の意識」を擦り付けるのだ。


おんなたちは、相手を選び、その結果の卵を生むのもやめるのも選ぶことができる。



不用意なセリフが、人々の社会を、考えを、固定的に変えていくということに、

芸術を作るものは心しなければならないだろう……

 笑えない舞台であった。同時に笑ってはいけないのではないかと思った。

  
暴力からは何も生まれない・・・・・   暴言からも何もうまれない・・・・・  抑圧からも何もうまれない・・・

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