井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 木下順二「子午線の祀り」(野村萬斎演出・主演、若村麻由美ほか出演)

<<   作成日時 : 2017/07/07 23:14   >>

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「子午線の祀り」を観た(2017年7月5日世田谷パブリックシアター)



 木下順二はついにシェイクピアになった!

どういうことかと言えば、演出の萬斎が自由にアレンジして舞台をつくっていたからだ。

初演を観たものとしては、随分と印象が違って驚いた。

聞くところによれば、木下の戯曲を上演台本にするとき、手を入れたそうだ。
群読を一人に言わせたり、いれかえたり・・・とか・・・・・台本は未見。
戯曲と比較していないから具体的には分からない。

 萬斎は狂言師だから、発声の方法が現代演劇の俳優たちとも歌舞伎の俳優たちとも異なる。
それゆえ、現代劇の舞台では、どうにも違和感を感じていた。

 この戯曲は、木下自身が能・狂言・歌舞伎・新劇などの俳優たちと一つの舞台を作り出し、
新しい日本の現代劇を、セリフ術(朗誦法)を生み出そうとして生まれたのであるから、
違和感がぶつかって新しい何かが生まれれば成功なのだろう!

 全体に写実味が濃く、群読が格調高く響いてこない気がした。
対話の「写実」や「あてぶり」がじゃましたのかもしれない。

 能の地謡を頭に置いてこの戯曲を作ったのは分かっているが、
高低(下調・上調)や調子を地謡とは異なる方法で「人々」に「群読をさせた」かった。
そんな意図が木下にはあったのではないかと推測している。

 知盛の萬斎、宗盛の國太郎、義経の成河、景時の今井朋彦たちは、写実が濃く、
したがって激高する時、叫びすぎる・・・・これは今少し抑えた方がいいように思う。

民部の村田雄浩、影身の若村麻由美は一つの語り方で通していた。この語り口はセリフが生きる。
しかし影身は、今少し超越した雰囲気が出るといいように思った。

 初演を観た時にはあまり感じなかった関係に気づいたことがある。
宗盛と知盛という兄と弟  対する  頼朝(鎌倉殿)と義経という兄と弟

 この両者の関係が、際立って異なり、その関係性ゆえに悲劇が生まれるという見方もできるということだ。

潮の流れが、平氏と源氏の両者の関係に大きく影響する。
それは、自然の動きが人間世界の思惑を超えたところで静かに動いていることを知らせ、人間たちの小ささを知らせることになる。

非日常的な自然の動きを告げる語りの部分がそれを更に倍加させるのだが・・・・・人間の卑小さもあまり迫ってこなかった。

 
 ところで近代以降では、〈義経は悲劇の武将〉という日本人好みの肯定的な評価が根付いているが

平家物語では、海の戦いの禁忌を破り、平氏の船の水主梶取(かこかんどり)を殺せという命を義経が出す。
義経は卑怯な武士であることが告げられている。

同じ題材の歌舞伎でも義経は卑怯な武将ということで表現されている。

 平家の勝ち戦はこれにより旗色が悪くなるのだ。

群読の部分が後景に下がり、各人の対話が前景化されて、功を焦る義経の卑劣さが更に浮かび上がった。

 
残念に思ったのは、最後に知盛の悲劇が、迫ってこなかったことだ。

初演は、凛々しい知盛の悲惨な哀しみと苦しさが嵐圭史によって表現されていたと記憶している。


 新しい演出は、舞台を広くしたり、照明を効果的に使用したり、演者に新しい役割をあたえたり、
それなりに評価したいと思うが、最後に知盛の悲劇が迫ってこないのは問題だろう。

最後に叫ぶ「影身」というセリフが生きてこないのである。


萬斎の語りと声の使い方、身体の動きに、その要因があるのかもしれない。

あるいは写実味の強さが原因か・・・?

 
木下は、古文のもつ「格調」をセリフに、舞台に、表現しようとおもったらしいから、
そうしたものが表現できればいいのかもしれない。

木下戯曲に何度も挑んでいる萬斎の事だから、
表現できるのもそう遠くないだろうと推測するが・・・・・・いかがであろうか・・・・


気のせいか舞台がなんとなく、蜷川幸雄が作った舞台に似ているような気がした。


最後に世田谷区が関係している劇場だから商業演劇ではないし、
無料のペラ一枚の配役評位出してほしいと思う。

1500円のプログラムを買わない人が多いのだから・・・・・・ 





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