井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 劇団民藝「神と人とのあいだ」第一部・第二部(木下順二作・兒玉庸策/丹野郁弓演出)

<<   作成日時 : 2018/02/28 10:42   >>

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第二部「夏・南方のローマンス」(丹野郁弓演出、2018年2月26日)、第一部「審判」(兒玉庸策演出、2月27日紀伊國屋サザンシアター)を観る

 劇団民藝が木下順二の「神と人とのあいだ」を一挙上演している。
今、日本国は〈戦争と平和〉の瀬戸際にいる。
まず、この時期の同時上演を讃えたい!

第一部は1970年に、第二部は1987年に初演された問題作だった。
この二つは一つの芝居として木下によって書かれ上演される事を願われたものだ。
(詳細は、劇場で販売されているプログラム―「民藝の仲間」404を参照されたい)

 実は研究仲間と『木下順二の世界 敗戦日本と向きあって』(社会評論社)を2014年に出している。
興味のある方は、紀伊國屋書店やアマゾンで購入いただくか、公立図書館で手にして読んで欲しい。

この本では、作品の選択はわたくしがして、第二部については斎藤偕子が書いているが、「審判」は取り上げなかった。どう位置付けていいか、迷っていたからだ。

 ちなみに取り上げた作品は「風浪」「山脈 やまなみ」「夕鶴」「暗い火花」「蛙昇天」「沖縄」「オットーと呼ばれる日本人」「無限軌道」(小説)「白い夜の宴」「子午線の祀り」「夏・南方のローマンス」「巨匠」である。

 今回同時上演を観て、「審判」と「夏・南方のローマンス」とが互いに呼応しあっていて、もしかすると前者は神(を気取った愚かな国際裁判)、後者は〈南方の〉人で、その間にわたくしたち・愚かで哀しい日本人と世界の列強が居た・・・・・という事になるのかもしれないと感じた。

 「夏・南方のローマンス」

 2013年の再演時の二人の俳優が今回も、女A(桜井明美)漫才師・女B(中地美佐子)を演じていて、前回の欠点を払拭して好い芝居をしていた。

他の俳優たちもこの芝居の、戦争という狂気と恐怖を見事に演じていた。民藝はいい俳優たちがいる。

 丹野は部分的に演出を変えていたようで、テンポもありいい。

愚かな人間たち・兵士や軍の上官たちがうごめく中で、一人他者の尊厳と人権を大事にして現地民に好感を持たれていた男Fが、捕虜を虐殺した実行犯という罪を擦り付けられる場面は、木下の作劇術の完成を見せる。

同時に、「人」(南方の純粋な人たち)も「純粋」であるがゆえに、「無知」であるがゆえに、過ちを犯すという〈恐怖〉は、彼らだけの問題ではなくて今、現実に私たち日本人が抱えている問題でもあることを感じさせる。


「審判」

 この作品は、単に戦勝国が敗戦国を裁くという愚かな行為を示すだけではなく、人間が作った法律というものは、その人間の都合によってどうにでも曲解されるものであって、決して正典カノンではないことを告げる。

 まさに〈茶番〉がたいそうな言葉の連なりの中で、何日もかけて舞台に乗った芝居の如く、観客に提供される。
一幕では言葉の嵐が観客を襲う。多くの観客は眠気を模様す。

つまりどうでもいいことが、いかにも重要事項として語られていたという事を示しているのだから・・・・

 それでいいのである。問題は二幕であったのだ。

二幕で神髄をつく。
大国が結局は自分たちの都合で日本国を植民地にしたい、自由にしたい、ということであったのだ。

そして人道と平和を犯した日本国の戦争犯罪人を裁くという行為―裁判が、実はその人道と平和を犯した原子爆弾については、それを落したかの国が大国であるか故に、不問に付すという茶番・・・・・

反論する存在を消すという行為・・・・それはまさに詭弁でしかない・・・・そういうことをこの舞台は明らかに見せてくれた。

この二つの作品はまさに現在の日本国の人々が見なければならない舞台である。是非劇場へ・・・・

「ミサイル配置」などという文言を昨日今日の新聞紙面で見ると、
ひょっとするとまた愚かな戦争を繰り返えそうとする為政者が、
永田町や霞が関にいるに違いない。


 木下順二が危惧した「戦争責任」について考える行為を棚の上に上げてきた過去と現在を持つわたくしたちは、「無知」「愚かさ」故に全滅の時を迎えようとしているのかもしれない。

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