井上理恵の演劇時評

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zoom RSS ポール・クローデル作、渡邊守章訳・構成・演出「繻子の靴」(剣幸他出演、SPAC)

<<   作成日時 : 2018/06/11 10:42   >>

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クローデル生誕150周年記念、大作「繻子の靴」を観た(2018年6月9日SPAC静岡芸術劇場)

とにかく長い! したがって睡魔との闘いでもあった!!
「四日間のスペインの芝居」・・・上演時間は8時間、間に休憩が3回(95分)

 訳・演出の渡邊守章によれば
正式なタイトルは「繻子の靴――最悪必ずしも定かならず(四日間のスペイン芝居)」
この長い芝居は、1925年駐日大使として日本に滞在中に完成したという。

副題から四日間で上演することを意識したわけではないと言うが、
こんな長い芝居は、身体が強靭でしかもよほど暇でなければみないから、
四日間の上演を考えたに違いないとわたくしは思う。

 19世紀の「西洋近代劇の〈一晩芝居〉の常識への挑戦」、
ワーグナー「二―ベルングの指輪」や古代ギリシャ悲劇「悲劇三部にサチュロス喜劇一部」
が、意識されたかもしれないというのが、渡邊守章説・・・・

・・・・これらへの〈対抗的行動〉と考えられるのでは・・・・・・・というのがわたくしの説

 初演は1943年、ジャン・ルイ・バローが、クローデルと共に作った〈一晩芝居〉のバージョン(四日目がカット)
(やはりクローデルも一晩で上演するには、長いと思っているし、各幕も短くしていることがわかる・・・・)
 
 再演は、1987年にアヴィニョン演劇祭でヴィテーズが全幕上演。

 
 クローデルはこの戯曲の四分の三を日本で書いたそうで、渡邊は
「日本人のクローデル専門家・演出家がこの大作を上演しないのは、〈日本を愛した詩人大使〉への〈大きな不義理〉」ということで上演。訳は2005年に岩波文庫で出る。

 渡邊は、「オラトリオ版」という演者が譜面台を前にテクストを読む形式で、2005年、2008年に上演。
その上演が不満で「オラトリオ版」と舞台で演技する場面を合わせて、2016年に京都造形大学の共同研究…文科省の科研費・・・で可能になったという。科研費は本当に、ありがたい。

 舞台装置はない。 
三層舞台・・・・舞台上の床・その奥にセリのごとき高い横板、またその上奥に高い横板
今回の舞台は、この高い横板の間にパネルがあり、これに装置を意味する映像があてられる。
照明と共に美術と映像が大きな役割を果たし、効果を上げていた。
 美術映像技術高谷史郎(高谷マルチメディア・パネル)・照明服部基
 映像も照明も素晴らしかった。
(宝塚でやった小池修一郎と東の「カサブランカ」の映像も素晴らしかったことを思い出す・・・ブログにあり)

この三層舞台は
クローデルがブラジルで見たニジンスキーのために書いた台本「男と欲望」の時に使ったらしい(渡邊)

セリがあれば容易く可能であるが、あのニジンスキーの時という事になると、昔だ。
南米公演は1913年だから・・・・素晴らしい舞台を生み出していたというのだろうか、
かのニジンスキーならやるはずずだが・・・。

が、クローデルがブラジル公使だったのは、1917年〜18年・・・・
この時ニジンスキーは北米をツアーしていた・・・どういうことか・・・?


 さて、細かいことは置いて、この芝居、16世紀スペインが世界を制覇していた時代。
ト書きを随所に説明人が入れていた。

アフリカ北西海岸総司令官ドン・ぺラージュ(阿部一徳・・・素晴らしいセリフ朗誦法…宮城舞台の成果)
若い妻ドニャ・プルエーズ(剣幸あ・・・・美しく品があり、セリフも明瞭で見事)

 この二人の俳優は、身体表現も立ち姿もセリフの朗誦法もとてもいい。

ドニャ・プルエーズは、新大陸制覇の野望に燃える若い騎士ロドリック(石井英明・・・身体表現が物足りないし、セリフに力が無く、聞かせられない。残念)と出会い互いに惹かれあう。

 これがこの芝居の発端、これにカトリックの教義が絡むから・・・・睡魔が襲う・・・
老いたペラージュは、妻の恋心に気づいて妻を禁じられた道へと誘惑し(この辺り、老人の狡猾さだ)、
プルエーズは苦悩する。(男の嫉妬程、恐ろしい物は無い)

 老総司令官は先に逝く。
 残された未亡人のプルエーズは、ロドリックの元に飛び立ちたいだろうに、
スペイン国王はアフリカ西海岸の守備をプルエーズに・・・
そこにいるのは彼女に惹かれているドン・カミーユ(吉見一豊・・・・セリフも身体表現もいい)

 アフリカの白い天蓋の中での二人の場面は、品がよくさわやかで、しかも熱を感じるいい場面であった・・・

 二人に七剣姫(川谷亜縫紗)が生まれるが、なぜかその顔はロドリックに似ていた・・・・この辺り、キリスト教の「処女懐胎」? 

 先日観た宝塚の「天は赤い河のほとり」でも恋しあっている二人は結ばれないが、女王の産んだ子は恋する男に似ているという局面をいれていた! この演出家もキリスト教徒だったのだろうか、とふと思う。
 (科学の入り込めない所だ)

 わからないのが三日目の場面。プルエーズは、カミーユと婚礼をするとき、ロドリックに手紙を出す。その手紙が10年間地球上をさまよい、ようやくロドリックの元に届くのだが、すでにプルエーズは、夢の中の守護天使と対話して〈自己犠牲〉・・・・つまり生贄?・・・を受け入れることを選んでいた。

二人はようやくであったのに・・・・ロドリックは、「一言」が言えない。ロドリックのいる地に残ってくれという言説

(おそらくカトリックの教義に縛られているていからだろう、
つまり神の許した関係でなければ男女の関係は認めないというそれ)

この前提のもとでは、カミーユは生きているから、(カトリックは離婚を否定している)、
二人は結ばれない…

(この辺が理解不能であった…・キリスト教徒でない身にとっては・・・)

天上での〈愛の成就〉を祈念して彼女はさる・・・・やれやれ・・・・

 四日目は〈もどき〉、という説明役の言葉があった。
この場は妙に演技が写実に流れ過ぎて、しかもテンポが遅くて俳優の「みせすぎ」感が前面に出ていて、面白くない。

 日本語の朗誦術は、古くは久保栄が、その後木下順二が、確立に悩んだ。
いわゆるセリフ回しをどうするか・・・・であった。

歌舞伎調の朗誦にならず、現代の朗誦技術を獲得するのは、なかなかに難しい。
下手をすると浪曲調になるからである。

SPACの宮城聡たちは、それを宮城能という形でこれまで提出してきた。
その成果が今回の舞台には歴然と現れていたように思われる。


俳優間の演技の統一などをいっているのではない。
実際、写実的発声で演じた俳優、適宜な朗誦で演じた俳優、
あるいは狂言的発声の俳優などなど、いろいろであった。
現代劇であるからこれはこれでいいと考える。

問題は、場面全体のリズム、場面を構築する演出の目なのだと思われる。

時々の睡魔は、場面のリズムが一定で、緩急がなかったことも一因ではないかと思われる。
まことに芝居は難しい・・・・

しかしこのような長い作品を一挙に上演した快挙には心からの拍手を送りたい・・・

まさか、「繻子の靴」が舞台でみられるとは、思っていなかったからだ。
これは一つの演劇的実験で、多様な演劇を思考する一助になるのであるが、
これが現在に生きるわたくしたちに考える何かを与えるというのとは、別物であるだろう。





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