井上理惠の演劇時評

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zoom RSS 桐朋学園芸術短期大学専攻科演劇専攻修了公演「おぐり」(作・演出 岡安伸治)

<<   作成日時 : 2011/01/31 23:58   >>

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専攻科の修了公演2011年版「おぐり・OGURI 打ち捨てられし人々の御物語 説教節【小栗判官】より」を観る(2011年1月30日昼 俳優座劇場)

 専攻科卒業予定の学生たち10人、岩淵はるか・西田智美・五十嵐史・池津望奈美・長岡真祐子・白川美波・松下高士・岩坪成美・畑中晋太郎・工藤頌子らが、みごとな舞台を作り上げた。

 岡安がプログラムに、「コンテンポラリーダンスをはじめ、マイム、殺陣、歌、民舞」などのテクニックの習得とレベルアップ、「色々な役を演じ分けるという緊張状態の持続」など5つの目的をあげている。

 それらが岡安の指導下で十全に機能して、若々しい熱気あふれる、しかもスピーディーでさわやかな舞台を彼らは生み出すことに成功した。1時間40分が短く感じられるほどの成果が上がっていた。

 小栗判官の説教節は、たびたび芝居になっている。日本の仏教がらみの話と言ってしまえばそれまでだが、因果応報が小栗と照手の一族、そして照手にも及びながら、照手は家父長制の基本である一人の「男に操を立てる」という、純潔さを維持して小栗の復活を手助けする。これらがうまく機能しているところにこの話が時代を超えて家父長制下の日本の社会で舞台化される理由だろう。

 面白いのは土葬した死人は命を吹き込まれれば生き返ることができ、焼却されて身体が灰になっていると生き返ることができないという発想。物理的に宿るものがなければ魂は住む場所がない。これは非常に近代的な発想だ。
宗教と言うのはもしかすると発想そのものが近代合理的であるのかもしれない。奇跡や応分の成果などが登場するのもそうだと言える。そうでなければ多くの民衆のあいだで長い間生き続けることはできなかったはずだ。

 こうして閻魔大王に許された小栗は再びこの世に戻る。土の中で朽ち果てる寸前であった肉体は醜い肉片同様。それに精気をもたらすのは、多くの人の願いを込めた想いだ。遊行の旅がはじまる。

 岡安は、この話に秦の始皇帝の命を受けて不老不死の薬を探して船に乗った子供と大人3000人が、紀伊半島に流れ着く話を入れる。そこへ来るまでに人肉を食し、病に倒れる人々。

 学生たちは、一人何役も演じ、黒子の役も、道具方もして舞台を動かす。機敏な動きと早くて明瞭なセリフ回し、
歌を歌い、踊りを踊る。

 最後の不老不死の薬を求めて船出した童に擬して、学生たちの新しい演劇世界への船出が始まる。希望の光を目指して船出する演出で暗転! いい幕切れであった。

 舞台作りをしたスタッフの学生たちすべてと、津軽三味線と打楽器を担当した田中志穂と長屋綾乃、鮎沢京吾にも拍手

 この舞台も、プロが作った舞台であった。こんな当たり前のことを何故、言うのか。それは高い入場料をとって見せている舞台に、弛緩したおざなりのものが多いからだ。出演者も素人、演出家も素人、喜んでだまされている観客、したり顔で劇評家ぶる観客・・・・     観客も時に、生きのいい見巧者にならなくては・・・・・と思う。 

 卒業していく10人の学生たち、彼らの未来に栄光あれ

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