井上理恵の演劇時評

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zoom RSS 燐光群、坂手洋二作・演出「九月、東京の路上で」(下北沢スズナリ)

<<   作成日時 : 2018/07/24 16:38   >>

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坂手洋二の新作「九月、東京の路上で」を観た


 加藤直樹著『九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイドの残響』(ころから刊)を基にした、ドキュメンタリー舞台、とでもいえばいいのか・・・・なんとも表現できない舞台で・・・・・眠かった

二時間半が長過ぎて、演劇的効果が巧く出ていない。
同じ調子の繰り返し・・・・・単調な展開。、いつもの坂手の舞台のようではなかった! 

加藤の本を持った俳優たちが加藤の文章を読むというか説明するというか・・・・全編そんな形で進むのだからたまったものではない。

とにかく疲れる舞台だった。

上演後の鄭義信とのアフタートークで自分の作ったセリフは無く、すべて加藤の本の文章とニュースになった中西議員と自衛隊員の話から作ったと坂手は語った!

 それなら、舞台にする必要はない。本を読めばいいわけだから・・・・・。何故つくったのか・・・???!!


 坂手洋二は、関東大震災時の朝鮮人虐殺が、歴史の教科書にない、あるいは昨年小池都知事が9・1の追悼式典で追悼文を送らなかったことが・・・・書く動機になった、と確か語っていた。


 坂手は、1924年雑誌『演劇新潮』4月号に掲載された
秋田雨雀作「骸骨の舞跳」という表現主義戯曲の存在を知らないのだと思った。

・・・・非常に残念だ・・・・

 これは 関東大震災時の朝鮮人虐殺をいち早く取り上げた唯一の戯曲である。

 『演劇新潮』はこの戯曲が原因で発売禁止になった。

わたくしたちは1999年に、『日の近代戯曲』(翰林書房)にこの戯曲を入れた。

 これは日本における表現主義戯曲の嚆矢と言われる優れた戯曲である。是非読んでもらいたい!


そこには、坂手の舞台で表現された、日本人と朝鮮人との選別に使われた方法が記されている。
災害時の日本人大衆の迎合と自分勝手さ、権力者のいやらしさ、軍医という医師の醜さ・・・・などなどが表現されていた。

 舞台の表現は、ドキュメンタリーで本の言説を並べるだけではだめなのだ・・・・そこが、映画と決定的に異なるところだと思っている。

 一つ気になった場面があった。

終幕近く、世田谷のオリンピックのためのNPO集団の人々が、突然金網のバリケードで囲まれた時、
自衛隊員と思しき男が、鉄パイプで金網を叩き、脅した。

中に閉じ込められた人々は、〈わたしたちは日本人です。朝鮮人ではありません。保険証がある、運転免許証がある〉と口々に叫び命乞いをする・・・・・おかしい・・・・!

朝鮮人虐殺で、自警団に何人殺されたのか、、真実を検証しようとしている彼らが、
あろうことか、自らに危機が迫った時、自分たちは〈日本人だ〉と叫ぶ・・・・・これはおかしいのではないか・・・?


彼らの〈たてまえと本音〉を〈醜さ〉を描出しようとするなら、その姿を否定する場がなければならないだろう・・・・

他国から連れてきた人々を、異民族だという理由で殺す・・・・一人殺しても百人殺しても、虐殺に変わりはない。数の問題ではないはずだ。


 ミュージカル全盛の現在の演劇状況の中で、歌や踊りに頼らず、
言葉で・・・セリフで・・・演技で・・・・作家の思想を表現するには、
観客にその思いを手わたすには、
どうしたらいいのか、考えている身にとっては、誠に残念な舞台表現であった・・・・・
 


 



 

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